高校時代の部活動では、ある文科系の部に所属していました。
「地理研究部(略称:地理研)」といって、
日本各地に出向いて、その土地の産業や特産品の研究をすることを目的としていました。
研究旅行は夏休みと春休みの年2回、時間を長く取れる夏休みの研究がメインで、
その「研究」の成果をその年の秋の文化祭で発表するのですが、
部の中心となるのは2年生で、初仕事が高2の夏の研究ということになります。
当時の「活動内容」を振り返ると、まず・・・、
高1夏:秋田杉の研究
高1春:藺草(いぐさ:畳表)の研究
高2夏:木曽漆器の研究
高2春:萩焼の研究
高3夏:最終学年のため参加はなし
高3春:唐津焼の研究 などなど。
今だから言えますが、というか、当時からみんなが知っていたことですが、
例えば、7日間の日程だったとすると、
その内「研究」と称して地元の方々の話を聞いたり見学をするのは大体2日程度で、
残りの5日程は行き帰りを含めて周辺の観光旅行でした。
とはいえ、目的はあくまで「研究」ですから、
ボク達の代ではひとつ「漆器」でも「研究」しようじゃないか、
と夏の目的地に木曽を選んだ訳です。
と夏の目的地に木曽を選んだ訳です。
その「研究」の成果は、まぁ置いとくとして、
この時の宿泊地のひとつが、奈良井の民宿でした。
何年にも及ぶ部の歴史の中でも民宿に泊まるのは初の試みで、
今回の「研究旅行」をみんなとても楽しみにしておりました。
何を基にどうやって見つけたのかは全く覚えていないのですが、
とてもいい民宿だったのでその時のことは今でもはっきりと覚えています。
宿の主は、“何でも来い!”的な、“肝っ玉母さん”的な豪快な女将さんで、
夕食の量の多さに全員がビックリさせられました。
あの金額でこんなに?と心配になってしまうほどのデカ盛りの料理。
いくら食べ盛りの中高生だからといっても、こんなに多くてはちょっと食べ切れないのでは、
と思った程でしたが、そこはやはり食べ盛り、たっぷり食べさせてもらいました。苦しかったけど。
そんな思い出があるこの奈良井にはまたいつか来ようと思い、今回ようやくその機会に恵まれました。
心配は、40年後の現在に当時の民宿がまだ残っているかどうか、のみ。
この辺りだったかなぁ?と見当を付けながら歩いていてもなかなか見つからず、
やっぱり40年も経っているともう民宿なんか辞めちゃったんだろうなぁ、
と思いながらさらに歩いて行くと・・・、
あったぁ~!
“豊かな食事と豊かな寝具?”という意味を持たせた「豊飯豊衣(ほいほい)」という名の民宿。
戸が半分ほど開いていたので中に入って人を呼ぶと、初老の男性が出て来ました。
“実は、私は今から約40年程前、夏休みに30名程の団体でお世話になった中の一人です。”と、長い自己紹介に始まり、
“今回私はどうしても当時のお礼が言いたくてここに来た”、という話をしたところ、
“数年前のお客さんならたまに来てくれることはあるが、まさか40年も前とは・・・”と、とても感激して下さいました。
そして当時の事に話が進むと、
女将さんは元々は農家の出身だったそうで、
子供達にはひもじい想いをさせちゃいかん、と常日頃から思っていて、
それで子供の団体だったボク達に大変な量の夕食を振舞ってくれたんだそうです。
あぁ、そういうことだったのか。やっぱり今日ここに来て良かった、と思えた瞬間でした。
その当時は女将さんのそんな心配りなどちっともわからなかった、
いや、わかる訳がなかったと言っていいと思います。今だからわかることです。
改めて、この男性にお礼を述べつつ、さらに話が進むと、
あの女将さんはこの男性の母親だったこと、その女将さんが5年前に亡くなったこと、
今では看板は掲げてはいるものの、表立っての民宿業はあまりやっていないらしく、
観光協会の仕事やJRから委託されて週に何度か駅で切符を売っていることなど、
いろんなことがわかったのも収穫でした。
この日のこの時間にこの男性が、たまたま昼食のために一時家に戻ったところだったようで、
ボクにとってはピンポイントの絶好のタイミングだったと云えます。
もっと早くても遅くても会えずじまいだったことを思うと、これまた本当にラッキーでした。
大袈裟かもしれませんが、
ここで話ができたことで、40年分の胸のつかえがストンと落ちたような気がして、
晴々とした気持ちで奈良井を後にすることができたのです。
そして、前もって連絡をすれば泊めてもらえるとのことだったので、
次回は今日のような日帰りの駆け足ツーリングではなく、泊まりがけでゆっくり歩いてみたいですね。
民宿も本格的に復活して欲しいものです。
民宿も本格的に復活して欲しいものです。
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